サハロフの日記

哲学したいPの日記。

字を丁寧に書くのは誰がため

最近はどうも、卑近な話を思想に引きつけて考えがちです。

※誤謬がある可能性もあります。

私は普段から、字をできるだけ丁寧に書くように心がけています。

さながら、ひらがな練習帳に文字をなぞって書くときのように。

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「ひらがなや漢字の練習帳は好きでした」

その理由は単純で、「字が丁寧だと自分の気持ちがいいから」です。

もちろん、雑に書くこともあります。急いでいるときや、さほど重要でないメモを取るときには、殴り書きや走り書きも厭いません。

ただ、時間に余裕があるときには、極力キレイな字を書こうとします。

そうして字を丁寧に書けたとき、あるいは丁寧に書いた字を見返すとき、私は恍惚としてしまいます。 

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「ああ、また丁寧に字を書くことができた・・・!」

ただ、丁寧に書こうとするあまり、弊害が発生することもあります。

それは「書くのに時間がかかる」ということです。

小学校のころ、授業中に担任の先生から「字を書くのが遅いな」と言われたことがあります。書いては消し、また書く、を繰り返していたのだから当然です。

高校や大学では、黒板を写し終える前に消されてしまうことも多々ありました。

それでも、私は丁寧に書く姿勢を変えていません。

 

それはひとえに、「字を丁寧に書いて気持ちよくなりたいから」です。

学校の教育方法や両親の教育方針は、全く関係ありません。

周囲に強制されたわけでも、そうせざるをえない状況に居たわけでもないです。

自分がそれを望んでいるから、そうしているだけのこと」なのです。

ここまで自己分析して、高校の倫理で学んだ「自己本位」が浮かびました。

 

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代表作は『吾輩は猫である』、『こころ』など

夏目漱石は、西洋の個人主義を知ってショックを受け、日本の「個」より「集団」を重んじる生き方を、他人本位であると否定しました。

他人本位のままでは、主体的な個人が確立せず、ひいては日本文化が外発的な開化から脱しないと考えたのです。

そして、自己の内面の欲求に基づいて生きる「自己本位」を説きました。

漱石はこれにより、日本文化を内発的に開化させたかったのでしょう。

第一に自己の個性の発展をしとげようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないということ。

第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないということ。

第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないということ。

出典『私の個人主義

当然ですが、漱石が説いたこの生き方は、「字を丁寧に書く」程度の話に引きつけても説明しきれないと思います。

「自己も他者も尊重し、義務や責任を重視する」という高い倫理性を伴い、「自分だけがよくありたい」という利己主義(エゴイズム)」を克服した真の個人主義であるところの「自己本位」は、軽々しく口にできるものではありません。

 

とはいえ漱石の考え方の一端は学べるのではないかと思います。

自己本位に、主体的に行動することで、自我を確立することができる、という風にまとめると納得できるのではないでしょうか。

私の場合は、「丁寧に字を書くことで、自我を確立している」のかもしれません。

丁寧に字を書くのは内発的な行為なので、内発的な自我の確立と言えそうです。

おそらく真の個人主義には足りませんが。

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「キレイな字が書ける私、ステキでは?」

ここまで書いて、論理の展開が強引すぎる気がしてきました。

というか、卑近な例を思想と結びつけると、無理が出てきて混乱しますね。

そもそも本当に字を丁寧に書くことは関係があるのかしらと自問しちゃいます。

まあ、ここまで書いたのですから 、最後は少々強引にまとめましょう。

自我の確立には「自己本位」の考え方も大切、ですよ!